1127年、金軍開封を包囲陥落させ、欽宗・徽宗以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣張邦昌を皇帝に据え、楚と号させることにした(靖康の変)。
金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を哲宗の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟趙構を南京応天府(現商丘市)にて帝位に迎えた(高宗)。1132年に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。
1130年に金は宋翰の主導の下、宋の地方知事であった劉豫を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。金と斉は宋を何度も攻撃するが、宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したためこう着状態に陥った。ここで宋翰の政敵である撻懶は方針を転換、捕らえていた秦檜を開放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。
撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、1138年に
斉は解体し、その領土は宋のものとする。
宋帝は金帝に対して臣礼をとる。
宋から金に銀25万両・絹20万匹を歳貢として送る。
などの条件で和約が結ばれた。
その直後に撻懶が宋翰らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、1141年に絹5万匹の増額・「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された(紹興和約)
銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、歳貢を送るとなっていることが重要である。遼に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。所が金に対しては臣として仕えねばならず、送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる宋学的考えからは到底認めがたい物であり、南宋を通じて北伐論は止むことが無かった。
1149年に金の3代熙宗を殺して新たに帝位に就いた海陵王は1161年に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに世宗が擁立された。世宗は国内統制に忙しいため宋に対して
国境は現状維持。
金が君・宋が臣の関係から金を叔父・宋をおいの関係にする。
歳貢を歳幣に改め、銀絹それぞれ5万の減額。
とかなり宋に譲歩した和約を結んだ(乾道和約)。
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宋の孝宗・金の世宗の二人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。寧宗朝で先見を振るった韓侂冑は金の窮状を好機と捉え、1206年に北伐を開始する(開禧用兵)。しかしこの出兵は失敗に終わり、韓侂冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。
宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス・カンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、これを撃退した。
追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、自らも滅ぼされた海上の盟のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。そして1234年、金の最後の皇帝哀帝は自殺し、金は完全に滅亡した。