パフォス(ギリシア語:Πάφος, 英語:Paphos, Pafos)は、
ギリシア神話に登場する人物でピュグマリオンとガラテアの子。
1. にちなんで命名されたとされるキプロス西部の都市。トルコ語ではバフ(Baf)。
2. およびその近郊に所在する古代遺跡群のユネスコ世界遺産における登録名称。
ギリシア神話では、美と愛の女神アプロディテは海の泡から生まれ、キプロス島に降り立ったとされる。以来、女神はキプロスを守護し、キプロスはアプロディテを崇拝する人々の聖地となった。
パフォス近郊の海岸には、アプロディテ誕生の地とされるペトラ・トゥ・ロミウ(Petra tou Romiou, 「ギリシアの岩」の意)があり、アプロディテ神殿はこの海岸に近い丘の上に建てられた。
キプロスのピュグマリオンはアプロディテの助けによって妻ガラテアを得た。二人の間に生まれた子がパフォスである。このパフォスと血縁もしくは姻戚関係があったキニュラスがパフォスの名にちなんで同名の都市を建設したと伝えられている。
パフォスおよびキニュラスについては諸説あり、オウィディウスによればキニュラスはパフォスの息子、偽アポロドーロスによれば、ピュグマリオンとガラテアの間の娘メタルメの夫(パフォスの義兄弟)とされている。このほか、パフォスをキプロスのニンフとし、アポロンとの間の子をキニュラスとする説もある。[1]
他方、ストラボンはパフォスをアマゾネスが建設したとしている。トロイア戦争に加わったアルカディア人の首領アガペノールによるものとする説もある。
聖パウロ
『使徒行伝』13章6節から13節に、パウロとバルナバが当時ローマ帝国の地方総督府がおかれていたパフォスを訪れ、布教をした記述がある。キプロスにおける伝承によると、この際、パウロは現在のアギア・キリアキ・クリソポリティッサ教会のある場所で、柱に縛りつけられ鞭打たれたとされる。この教会には現在も聖パウロの柱と呼ばれるものがある。
『コリントの信徒への手紙二』11章24節から25節において、パウロは布教の際に自らがユダヤ人やローマ人たちから鞭打たれた経験について記しているが、キプロスでの鞭打ちが史実かどうかははっきりしていない。
ディゲニス・アクリタス
中世ビザンティン世界に成立した民衆叙事詩『ディゲニス・アクリタス』の主人公ディゲニスは、キプロスに現れたサラセン人を追いやるため、その怪力をもってトロードス山の大岩を投げつけた。キプロスの言い伝えによれば、その岩がペトラ・トゥ・ロミウの岩であるという。
地理
パフォスはキプロス西部にあるパフォス地区の中心都市である。2005年の統計によれば、パフォスの人口は52,800人[4] となっている。パフォス市街はおよそ2つの区域に分かれ、丘の上に位置する居住区域クティマと、海岸沿いの繁華なリゾート区域カトパフォス(「低パフォス」の意)から構成される。
パフォス港はもっぱらリマソールとの国内航路に用いられ、また釣りなどのレジャーを楽しむための小規模な港である。
歴史
パフォスには新石器時代から人類による居住跡があることが考古学的調査によって報告されている。前12世紀にミケーネ人が神殿を建設し、豊穣神(地母神)、とりわけアプロディテ崇拝の中心としてキプロス島外からも多くの巡礼者を集めた。
紀元前3世紀、都市国家パフォス最後の王ニコクレスが遷都を行なう。およそ10数km 離れた場所に新都と港を建設され、以降、現在のパフォスにあたるこの都市がネアパフォス(新パフォス)、それまでのパフォスはパレオパフォス(旧パフォス)と呼ばれるようになった。ヘレニズム期にはこの地に影響力をもったプトレマイオス朝が、パフォスをサラミスに代わるキプロスの首都として定め、これはローマ時代まで続いた。
しかし東ローマ帝国の時代にニコシアに首都が移ると、パフォスの政治的影響力は低下した。この傾向はその後のオスマン帝国の治世下にさらに進み、港湾都市としてもラルナカにその地位を奪われる。イギリス領となった時期にはリマソールなどへの人口流出も起きた。
ところが1974年、キプロスがトルコの軍事介入を受け、南北が分断される(キプロス問題)。これによってキプロス島北部のキレニアやファマグスタといった観光都市が北キプロスの支配下におかれる。観光業に力を入れていたキプロス政府はこれを受けて、開発の遅れていたパフォスおよびその周辺市町村からなるパフォス地区を、これらに代わる新たなリゾートとすべく、大規模なインフラ整備に着手した。灌漑用ダムをはじめ、配水設備や道路、国際空港(パフォス国際空港)などの建設が行なわれた。これにともなって、ホテルやマンション、別荘も増加した。[5] 1980年にはパフォスとその周辺地域がユネスコの世界遺産に登録された。
ユネスコの世界遺産としてのパフォスは、現在のパフォス市およびその近郊に位置する、新旧両方のパフォスの古代遺跡群を指す。これらが一括して文化遺産「パフォス」として登録された。
カトパフォスのアプロディテ神殿都市
パフォスの海岸沿い、カトパフォス地区にある遺跡群。106.4 haが対象地域となっている。ディオニュソスの家、テセウスの家、オルフェウスの家、アイオンの家と名付けられた建物があり、これらは貴族の邸宅であったと考えられている。ヘレニズム期からビザンティン期にかけてのギリシア神話を題材としたモザイクがあることで知られている。
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ディオニュソスの家
2世紀末に建てられた、中庭を中心に部屋が並ぶ2,000m2 のグレコ・ローマン期の邸宅である。神話の場面やブドウの収穫、狩りなどを描いたモザイクで飾られている。入り口にはスキュラを描いたヘレニズム期のモザイクも残る。建物は4世紀の地震で損壊している。
テセウスの家
2世紀に建造、7世紀まで使われた。部屋数が100をこえる大規模な建物であるため、キプロスの行政官が暮らした邸宅だったと考えられている。テセウスとミノタウロス、ポセイドンとアンピトリテ、産湯をつかうアキレウスのモザイクがある。
オルフェウスの家
ディオニュソスの家に似たグレコ・ローマン期の邸宅で、2世紀後半から3世紀前半にかけて建造された。獣たちに囲まれたオルフェウスをはじめ、ヘラクレスとネメアのライオン、馬に乗るアマゾンのモザイクがある。
アイオンの家
部分的に発掘が行なわれているが、4世紀中頃の作とされるモザイクが既に見つかっており、ディオニュソスの誕生から、レダと白鳥、カシオペイアとネレイデス、アポロンとマルシュアス、ディオニュソスの勝利などが描かれている。
サランダ・コロネス
7世紀にパフォス港とネアパフォスを防御するために建てられたビザンティン様式の城砦。サランダ・コロネスとは「40本の柱」の意である。1223年、地震で崩壊した。
パフォス城
13世紀、フランク人がサランダ・コロネスの代わりとして、パフォス港西側に建設した城砦。1373年にジェノヴァ人が改築を行なった。建設当初にあった2つの塔は15世紀末に片方が地震のため崩壊、もう一方は、16世紀にヴェネツィア人が爆破している。
現在のパフォス城の姿はオスマン帝国による修復後のものである。オスマン帝政期には、内部に監獄やモスクが作られた。城の上部には狭間胸壁があり、大砲が据えられていた。イギリスの支配下では塩をおさめる倉庫として使われた。
1935年、パフォス城は歴史的建造物として認められ、キプロス政府によって修復保護されている。
アギア・キリアキ・クリソポリティッサ教会
4世紀に創建された教会で、かつては大規模なバシリカがあった。11世紀、16世紀にそれぞれ別の教会がこの場所に建てられた。現在は英国国教会の聖堂となっているが、それ以前の教会の遺構も残されている。聖パウロの柱があることでも知られる。
クークリア村のアプロディテ神殿
クークリアはかつてパレオパフォスがあった場所に位置するパフォス近郊の村。ペトラ・トゥ・ロミウを含む22.9 haが対象地域となっている。
前12世紀、この地に豊穣神を祀る神殿が建設された。この神殿では円錐形の聖石が神の力を表わす偶像として祀られていた。ニコクレス王によるネアパフォスへの遷都の後も、パレオパフォスはアプロディテ崇拝の聖地として、またローマ時代には銅貨の鋳造所として栄えた。この時代のコインにはパフォスのアプロディテ神殿を図案としたものもある。なお、4世紀にキプロスがキリスト教化されると豊穣神崇拝は姿を消した。
クークリアのアプロディテ神殿遺跡は、南側に位置する青銅器時代後期の第1サンクチュアリと、北側に位置する1世紀末から2世紀初頭にかけての第2サンクチュアリからなる。第1サンクチュアリは、石灰岩を積んで作られた巨大な壁で囲まれた聖域があり、円錐形の聖石を中央に祀った祭壇ももうけられていた。ローマ期の神殿である第2サンクチュアリにおいてもこの聖石崇拝は行なわれた。
1950年代以降、本格的な遺跡調査が行なわれている。クークリアの考古学博物館には、村の周辺で見つかった発掘物が展示されている。
レダの家
2世紀の建物で、食堂部分のみが現存。レダと白鳥を描いたモザイクがあり、オリジナルはクークリア考古学博物館に展示されている。
カトパフォスのネクロポリス
通称、王家の墓。紀元前3世紀に建てられた、32.7 haの広さをもつ地下墓地(ネクロポリス)である。ドーリア式の柱をもつ。[8]
中世にはこの墓地を住居とする者が現れ、19世紀には盗掘の被害にもあっている。20世紀になって本格的な調査が始まった。実際には王墓ではなく、上級官僚を務めた人物とその家族の墓ではないかと考えられている。